2011年4月28日

「アルルの女」ってどんな女よ・・・。

4.16久々の森下。この日は前日まで仕事がトラぶっていて、深夜までかかって片付き、なんとか当日12:30音だし。

うれしいことにまた新人さん見学さんにも来ていただいた。こんなにいい練習場で、お互い貴重な時間を使って集まっているはずなのだが・・・連日の残業で僕自身もあまり予習できなかったこともあるし、メンバーも1回前の練習と結構変わっていて、結局前回4/2と大して変わらない練習をしてしまった。練習もざわざわしてどことなく集中できない。これじゃ同じ内容の練習を2-3回づつやる感じで、時間がもったいない。

バッカス以外の土日は子供の世話があるし、今年は本業も激忙で土日出勤が結構ある。音楽にさける時間が、以前の3分の一くらいになった気がする。 いきなり愚痴になってしまったが、こうなって初めて、短い時間に集中して音楽することの大事さを感じる。じゃあ、効率第一で無駄を排した練習がいいかと言うとそれだけじゃつまんない。

少ない時間で集中してやるには・・・よく言われる「真剣に遊ぶ」という言葉の意味を考えたい・・・合奏は自分自身を見つめることでもあるし、周りの人に思いをはせることでもある。自分は楽しめているか?周りの人は楽しめているか?周りの人の時間を無駄にしていないか?・・・ACの広告みたいになってしまった。

そもそも大震災の余燼もまだまだくすぶっているし、日本中に目に見えない苦悩が覆いかぶさってみんなが逼塞している感じだ。あいまいな「便利で安全な生活」への欲求と、それを失う恐怖にわれを忘れて足元が見えなくなっている。

僕はこんな時はケセラセラで行きたい。無策の策という言葉もある。あえて悩まずにこの閉塞感を忘れたい。さあ次は合宿!待望のファランドールも上がるし、テンションを揚げていきたい。

歌劇「アルルの女」は、主人公の男・フェデリコがアルル(地名)の闘牛場で一目見ただけの女(なんとタイトルになっているくせに劇中に一度も登場しない)に恋焦がれ、やがて他人に奪われてしまうという妄想にとらわれ、すぐそばにあった本当の愛に気づかずに自ら命を絶ってしまうという悲劇。

アルルの女って結局どんな女よ・・・。
人間の愚かしさは今も昔も変わらない。

2011年4月19日

練習再開・・・。

3/20の練習は、大本営の判断で、震災の影響で中止となった。この時期はろくに電車も動いておらず、余震も毎日数度起きていた状況だったのである。 僕は地震の瞬間、電車に乗っていたのであるが、あの揺れの激しさは無論人生最大のものであった。 それから数週間、(東北地方に比べれば甘すぎるが)東京周辺の交通や物資流通の麻痺状況と言ったらひどいもので、多少マシになったとはいえ、今度は原発騒ぎで、混乱は続行中。これについてもいつかここで書くことがあるであろう。

残念なのは、元・山男として、ヘッドライトやランタンやコンロやら燃料やらコッヘルやら、仰山所持していたのであったが、はやりの「断・捨・離」整理法に影響されて去年大部分を処分してしまったのである。今頃あれらがあれば・・・。

さて、4/2杉並。 交通状況も一段落したところで、やっと練習再開。 杉並は高い天井と、デラックスな作りで、響きのきれいな贅沢な練習場である。ベースパートが4人という奇跡の出席率の割には、全体としては初回に比べると人数が少し少ないか。まあまだいろいろ大変なのである。

この日は1部はプレリュード4中心。これは、去年の3よりもかなり弾き応えのある曲。交響的ほどではないが、なかなかに手ごわく、また楽しい。冒頭の「吉水節」なごむなあ。 3部は小川君がプレリュードをあげてくれたので、時間いっぱいほぼ全部この曲。いやあ、いよいよアルルである。 初見でも有り、ところどころ厳しい部分もあるが、まずまずの出来。CDで聴くとちょっと間延びして退屈に聞こえる後半部分が、演奏していると燃えてくる。

2部は難曲・航海王子。当分はこれに取り組むことになる。弾けるだけじゃもったいない。喜望峰を目指して逆巻く怒涛に挑んでいくような、情熱的な音楽にしたいもの。マリオネット独特の奏法やニュアンスも重要。 大部分の奏者は無論これらの曲の魅力をわかっているのであろうが、指揮者のほうからこの曲の魅力を発信しなければいけない。

いずれにしろ、この状況でも楽器を持って集まり合奏が楽しめると言うことは本当にありがたいことだ・・・。 次回は4/16