2010年6月15日

音楽と誤植の話

職業柄、誤植にはいろいろな思い出がある。仕事上のは守秘義務があり語れないが、たわいの無いものなら高校生の頃、当時人気だった雑誌の「宝島」に面白い誤植のコーナーがあって、そこに投稿したこともある。この誤植は「VOW2」にも載っていて、今も見ることができる。堂々と本名で出ているので、暇な人は見てほしい。

内容的には英語の参考書で見つけた章ごとの小見出しにある「ここだけは絶対マスター」というのが、章が変わるごとに「マタスー」「スマター」と三段活用で変化していくというもの。当時は「スマター」がそこそこ受けて、シールをもらった。

演奏会のプログラムやCDのレーベルにも結構誤植が数々ある。身近なところで、業界でも開催の年月日、団体名、曲名、人名などに誤植があり、対応に大変な思いをした団体もあるだろう。特に偉い先生の人名や曲名はシャレにならない。我々も気をつけたいものである。吉水先生が吉永先生というのも時々見る。

業界で言えばドムラ協奏曲が「ドラム協奏曲」なのは良くある話で驚きもしない。入力者が「おいおい、これドラムだろwww」なんて気を利かせたんだろうか?

また「クラシックマ○でやバい話」にあったのだが、現代音楽の偉い先生の「冥」という曲名が、CDでどういうわけか「宴」になっていたとか。冥土とか冥界の「冥」をイメージして作られた曲を、宴会の「宴」という題名の先入観で聴いた人々の戸惑いと腑に落ちなさを想像すると気の毒だが笑える。
またクラシック界で定番の誤植、モーツアルト・ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風呂》・・・キーボードが暴走してしまったのか、普段からそんな単語ばかり打ち込んでいるのでWordが学習してしまったのか・・・。ソリストがどんなにかっこよくても思わずほほが緩んでしまう。

題名違いといえば、学生の頃、ヴェルキの「組曲第二番」をどういうわけか「スペイン舞曲(モシュコフスキー?か何かの)」と勘違いして2ヶ月くらい練習してしまったことが有る。テープの曲順が間違っていたのか、譜面の題名もドイツ語だったのでよくわからなかったのか・・。
「うーん、この秘めた情熱がスペインっぽいんだよなあ・・・」なんて悦に入っていたのだから、間違いが分かったときは爆笑してしまった。だが、このときもしも最後まで気付かすに演奏していたらどうなっていたろう?スペイン風のヴェルキになっていたかも知れず、なかなか面白い。

たとえば何も知らない学生にmoのための「土偶」の譜面を「細川ガラシャ」と題を差し替えて演奏させたら面白いかもしれない。「細川ガラシャ」ってなにか宇宙人みたいな人だったんですね・・・なんて。
誤植の話からずれた・・・。

このまえ、なんとなくネット検索していたら、バッカス19のコンサートの曲目について、ある掲示板で「そどれみラプソディ」が「それぞれのラプソディ」になっていた・・・シ・シブい!井上陽水の曲みたいである。そどれみよりよっぽど詩的である。こんな曲があったら聴いてみたい。
なぜ、誤植が面白いかというと、無作為の偶然があるからである。無意識のうちに犯してしまうからこそ笑える。

演奏もそうで、わざと間違う人はいないのだが、無意識のうちに間違うときにある種のおかしみが生まれる。そして時には「それぞれのラプソディ」みたいな味のある誤植(ミス)も生まれる。
アマチュアの練習風景においては、こんな音楽上の誤植は日常茶飯事で、それ自体がじつはいつまでも忘れられない暖かな思い出になったりする。

(このたはごとも誤植だらけなことはおいといて)

2010年6月7日

サーベルと夏みかん

やっぱりなかなか更新できず。書きたいネタもあるのだが、まずは最近の練習風景の点描から。

最近ありがたいことに新人さんや見学さんが多い。ついに平成生まれも現われた!一番上のほうと下のほうとの団員の年齢差はついにかぎりなく30歳近くとなった。ほぼワン・ゼネレーション。理想の年齢分布図である。子育て世代の団員たちも、ボツボツ戻ってきてくれている。

練習場の中や外にはいつも数名の子供がいて、最近は子供たちも友達同士になったようである。この中から第2世代の団員が出るかも知れず。

僕ももう少し子供が大きくなったらつれてくるつもりである。そのとき(振っていればだが)はシモネタ厳禁で、謹厳な指揮者を演出するのでみな、話を合わせるように。

最近の新人さんで「CDを買ったことが無い(音楽は全部ダウンロード)」というのが出てきたということで呆然。僕らの間では、初めてレコードからCDに買い換えたのはいつごろ?というのがお互いの年代を知る話題だったのだが。

さて、そんなある日の練習(6/6)を点描。

まずこの日は、とんでもなく出席率が良かった。数日前に僕が「もっと体を動かして、自由な魂で弾け!」という大和魂注入メールを送ったので、早くもその効果が現れたかと二やついていたのだが、単に今日はパート写真を撮るというメールが流されたためらしい。

12時から小川君の1部の練習。舞踊風をインテンポでやっている!すごい轟音である。パストラルも練馬名物・またぐら納豆(がきデカ!古いね)のようなコクと、豪速のフィナーレ。みんな「弾けねー」といいつつ楽しそうである。

みんなが合奏している間、僕は砂町商店街で買ったころころモップとやすりを使ってなにやら作成。タイガージェット・シンがよく口に咥えているあれである。

さて僕の3部・新世界。今日は1楽章から。冒頭の低音のメロディ。ここは本当に重要である。このつかみでお客さんがやるな、と思うかがっかりするか決まってしまう。普通にいいだけじゃダメなのだ。異常に良くないとやる意味が無い。ここは、夏の間もこだわってやっていきたい。

後はリズム。「グルーブ感」は、ブラックなおミュージックの専売特許ではない。リズムに体ごと乗っていく感覚はこの曲を演奏する上での絶対必要条件である。ドヴォルザークだけに、この1楽章のリズムは機関車が疾走するリズムそのものなのである。西洋音楽の基本中の基本をここはあらためて再確認したい。機関車のリズムとは「ガッタン、ゴットン」なのである。けして「ガッタン、ガッタン」ではない。

みんなで同じ機関車に乗ること。なにも同じ方向を向いて行儀よく座っている必要は無い。向かい合ってトランプしたり、弁当を食べたりしてかまわないのだ。ただただ、同じ機関車に乗ること。1楽章は今日はそれを徹底。どうやらみんな同じ機関車に乗れたようである。

2楽章は、この日は通しただけ。バッカスが最も特意とするタイプの音楽である。ただしこの日は考えすぎて棒が死んでいた。

3楽章は、まだ弾くのに必死であるが、かなり形になった。正直こんなにかっこよくなるとは。大村君さすがである。ただ、中間部のチェコの舞曲っぽいモチーフが、生き生きとしてない。テンションがひくいなぁ。

4楽章も、基本的に機関車。冒頭のアレからして、機関車の重たい車輪が動き出す描写(ではなかろうか?)この楽章はみんな安定している。中間部のきれいなところ。ここもだいぶ良い。最後のLargoは宇宙的な音の洪水・・・これは本番ではもっとテンションが上がるのだから、語り草になるのではないか。曲が終わったとき、3分の一くらいのひとの弦が切れていたらおもしろい。

休憩の後2部。ドリフは、演奏のほうはかなり形になった。あとはテンションである。テレがあるなぁ。もっとはじけないと。

大河はもう満点である。とくに篤姫が泣ける。心が洗われる。これは思いっきり楽しんで演奏できそう。


表題のサーベルと夏みかん・・・。これだけで企画との関連が分かる人は、間違いなく80’s・・・いや僕らのお仲間である。
でもこれもどうなるか?諸問題があってまだテスト段階なのだが。
まずは、いろいろお客さんに楽しんでいただくために、合奏も企画も仕込み中なのである。