2007年7月23日

早くも1ヶ月前!

本業のほうに専念したり、パソコンのトラブルでこのブログに書き込めないでいるうちに、本番1ヶ月前になってしまった・・・2日連続練習の季節でもあり、いよいよたけなわとなったバッカスシーズンを点描したい。

全体の印象で言うと、いよいよ背水の陣で全員の音に気迫がこもってきた感じである。時にパートの参加率にばらつきはあるが、音に抜けと力強さが加わった。
一言で言うと・・・今年もすごいことになってきそう!!

1部の聞き物はやはりヴァージナル。坂野先生がわざわざ2回もコーチしてくださった。曲のいろいろな点について解説・トレーニングしてくださるのもありがたいが、業界人以外のプロの作曲・演奏家にマンドリンオケを聞いていただきその率直な感想を聞くのは本当に参考になる。

たとえば、速度記号。アレグロなどの速度の指示があった後、ritやaccellなど次の速度記号があるまでそのままのテンポをキープしなければいけないとは限らない、ということ。音楽・メロディの流れで必要に応じ自由に変化すべきということ。

もうひとつ、マンドリンという楽器と奏法の制約を音楽の場に持ち込まないこと。これはご想像がつくだろうが、つまりトレモロを入れやすい・入れにくいとか、絃をまたぐ・またがないとかで、テンポ・アゴーギグなどを決めないこと。

そんなの当たり前と思う人も多いだろう。自分もそうおもってきたのであるが、マンドリンの世界がわりとそうでないので、最近不安に思っていたのだが、一流の音楽家の口から聞いて「やっぱりこれでいいんだ」とほっとした次第。

企画のはげ山は、自分で言うのもなんだが、事毎に意表に出るハズシっぷり、昭和を感じる下世話なテイスト、かなり天晴れなできである。わが心の師O氏が、去年Mistery of hoursという、スペインもののメドレーの傑作を書いたのだが、今回は長さといい編成といい、なんとなくそれを意識して書いた。しかし内容はまったく違い、O師がどんなに音楽を崩しても気品があり、芸術の香りがするのに比べ僕のは徹底的に・・・後は当日聞いていただくしかない。
はげ山で始まるがその後は例のごとく・・・ってやつである。どうぞお楽しみに。

展覧会はバッカス全17回中、史上最長・最大の曲であると同時に、最深、最凶、最難、であり、そして本番ではここ数年で最も感動できそうな曲でもある。キエフでは久々に泣けそうである。もちろん練習ではまだ泣けない。「♪卒業」みたいにクライマックスまで涙はとっておきたいのだ。

原調で全曲に挑戦ということで、最初はとにかく音取りに必死、メカニックも難しく、ついに奏者からも異例の「難しすぎる」という意見も出たのであったが、ガルトマンの絵を見、いろいろ意見を出して、みなで曲の精神に迫った。作曲の経過や、ラヴェルのオケ編以降のことについては有名なので割愛するが、いろいろ調べているうちにこの曲の凄みがわかってきた。

ムソルグスキー・ガルトマンを引き合わせ、当時の芸術家たちのリーダー的存在であったスターソフによるとガルトマンは才能があったけれども「今も当時も無名の」建築家・画家であった。少なくともこの展覧会の絵という曲の存在がなければこれだけ多くの人に知られることは無かったろう。実際10曲すべての絵は発見されておらず、かなりの作品が散逸している。

ガルトマンは社交的で、いい年をしてパーティなどでは仮装をしてはしゃぎまわり、ひとつのところに5秒もじっとしていられない人物だったらしい。今で言うADHD(多動症候群)の気があったのではなかったか。特に晩年、鈍重で人嫌いの傾向があったムソルグスキーには、自分に無いものを持った魅力ある人物に思えたに違いない。ムソルグスキーが同性愛者であった証拠は無いが、ガルトマンとは友情以上、相当精神的に強く結びついていたようだ。


そんな敬愛する人物が突然死んでしまったら・・・そして彼の芸術が無名であるゆえに埋もれていく運命にあるのだとしたら・・・ムソルグスキーは、親友の遺作を見たときに心にこみ上げてきた何者かを音楽にしたのであるが、同時に忘れ去られんとする親友(恋人?)の才能を自分の表現手段である音楽の中に写し取り、一生の宝物にしようとしていたのに違いない。

ムソルグスキーはこの曲を出版する意思がなかった。出版したのはリムスキーコルサコフが発見・改訂したからである。この曲の凄みというのは、これだけの曲でありながら、たぶんこれはムソルスキーにとってかなり私的なプライベートな曲なのだ。

とくにキエフの大門の絵は、ガルトマンが設計コンクールに応募して好評を得たものの、結局採用されなかったといういわくがついている。ムソルグスキーは亡友の夢を、自分の音楽の中で完成させたのであろう・・・ガルトマンの絵にある3つの鐘こそ、クライマックスで乱打されるカンパネラの響きに違いない。O師の編曲にはもちろんふんだんにカンパネラが使われている。

ピアノの原典版を見ると、それまで複雑怪奇な真っ黒の譜面が、キエフでは突然白玉になる。想いが大きすぎて、白玉になってしまったのか。
鍵盤の上に指を叩きつけたままいつまでもうなだれて動けないムソルグスキーが僕には見えるのである。

さて、アンコールはまだ秘密。
エンディングは久しぶりにバッカナール!!




この前読んだとある本に「指揮者は時間泥棒」という言葉があってドキッとしたのだが、今回は指揮者はもちろんのこと、団員80名が死に物狂いで演奏するので、形にならない何かを持ち帰っていただくことはできると自負しております。