2007年3月13日

名も知らぬ人生の果てに・・・

ふと考えたのだが、いま自分が生きているということは確実に両親という二人の人間の存在があるからなのだが、両親にもそれぞれ両親がありさらにその両親にもそれぞれの両親があったのだけは絶対に間違いない。4代さかのぼれば30人もの人生が自分が生まれるためには必要だった。逆に言うとそれらの人々が生きた証拠がこの自分である。

いまの自分はこれら確実に存在した人々のそれぞれの人生が引き継いできた思いの突端にいるということでちょっと感動する。3代さかのぼれば顔も名も知らぬ人たちだが。
ちょっと罰当たりだがすべての曾祖父母の名前をあなたは言えるだろうか?
由緒ある家ならそういうことはすぐわかるだろうが、少なくとも僕はいま知らない。
確実に存在したのに、ひ孫の代には名前すら忘れられていく人々と人生、思えば悲しいが、庶民の9割9分はそうだろう。

これらのもう一人の自分・わが祖先の人々はどんな人生を送ったのか・・・
ためしに自分の生年から、一般に一世代30年といわれているので30年を引いていく。まず両親だが、型どおり1970から30年引いて1940年生まれ(本当はもう少し速い)さらに祖父母は1910年、曽祖父母は1880年その先は1850年、1820年、1790年・・・もう4代前は江戸時代だ。まあ、年代的に誤差はあるだろうが、この年代を参考に祖先の人生を日本史年表を片手に想像してみる。どれもつらい時代だ・・・確かにいたはずの別の自分たちの人生を思う。

僕は歴史学科出身だし、普段から歴史関係の本を読み漁っている。大河ドラマも好きだ。自分の祖先が名のある人ならどんなにいいかと思うが、残念ながらその見込みはまったくない。

一度両親に先祖は何か真剣に聞いてみたが「越後地方の水呑百姓」または「博労」となんともさえない答えであった。
たぶん間違いなく、昔の日本人の大部分を占めていた貧農で、日本残酷物語(平凡社)そのままの過酷な人生を積み重ねたのであろう。

そういった分身たちの苦闘の歴史を踏み台に自分はいま立っている・・・だから何か明日から変わるわけではないのだが、時々そんなことを考えて少し嬉しくなったり悲しくなったりする。