2010年7月13日

夏を待てない!

表題のもとネタが分かった人はお友達だ。
さて、7/11の練習はひさびさのかつしか。子供の世話をしていて10分くらい遅刻する。この日はパーカッションも入りノリノリである。杉並より天井は低いし、ここのリハ室は基本的にデッドなのだが、それでもよく響いている。

舞踊風。人がいなくてタンバリンを叩かせてもらう。初めてだが快感!小学生団友のゆきちゃんはちいさな銅鑼を。変拍子バリバリでも完璧だ。さすがにサラブレッド。
ドリフ。広井さん・豊田さんのドラムが入って最高に楽しい。この日はひげダンスのネタが・・・。これ以上はかけない。当日までの秘密である。

後は大河をパーカッション入りで。これもほんとうに良くなった。篤姫はドーパミン全開。新世界はクラ2本が入って、ああ、こんな音がするんだと思いながら、叩いて通し。振るのはしばらくお休みして、ひたすらにリズムを叩き込むことに。それと、徹頭徹尾呼吸にこだわる。せめて最初の入りだけでも絶対呼吸を合わせよう!あとはドヴォルザークの熱い魂を全身で表現できるか。

ところで、バッカスでも、指導させてもらっている学校やアンサンブルにも、もっと楽しんで全身で演奏しようといっている。しかしこれが難しいらしい。音楽の要求するままに自由に体を動かして(あるいはあえて動かさずに)楽しんでほしいのだが、じゃあどういう風に、どこからどこまで体を動かすんですか?と聞かれてしまうと、これは違う。国民性なのか「体を動かすなら、全員できちんとそろえて」となってしまうのだ。

とはいえ、そうじゃなくてみんな思い思いにノリで、というと、「みんな」という三人称の中に個々の責任が埋没してしまい、何人かはわかっていてやってくれるが、「みんな」としては静止画のように動かない。

僕の理想はここで何度も言っている通りSBYOVである。個々がわれを忘れて音楽に没入してノリまくっているが、それがまた独りよがりに見えず、動きはばらばらでも音楽への想いは見事にひとつになっていて、見ているこちらまで、しみじみ音楽ってすごいな、よくぞ音楽のある時代に生まれた、と思える。もっと自由に無邪気に、ピュアに、ああできないものかなと思う。ドゥダメルが指揮者だから、といわれればそれまでだが。

クラシックは演奏するのも聴くのもじっと品よく微動だにせず・・・。なんてはっきり言って、不幸な勘違いから来た思い込み・錯覚である。それは明治日本の西洋コンプレックスの塊のような人々が、たまたま有る国の有る流派のある時期の音楽がそうだったから、猫も杓子もすべてのクラシックに当てはめてしまったのである。

クラシック音楽を乱暴に定義すると、欧州キリスト教圏周辺の18世紀から20世紀の前半くらいまでの音楽だが、時代によって、人種・地域・文化(ラテン・非ラテンかなど)によって聴衆の楽しみ方や演奏のスタイルは千差万別なのだ。

またクラシックはたしかに再現する芸術だけれど、神経質に重箱の隅をつつきすぎるのも、亜流コンプレックスの強い日本独自の宿阿ではないか?本場の欧州の若手奏者は、もっと古典の呪縛から開放されて自由に演奏して、それがまた喝采を浴びている。

ましてや、誤解を恐れず言ってしまうなら、マンドリンは軽音楽向きのもっと気楽な楽器である!最低限の楽典が頭にはいっていれば自由に演奏してよいし、しゃちほこばるのはかえって滑稽ですらある。(軽音楽団体がなぜシンフォニーを編曲してやるのかといえば、これは壮大でこの上なく真剣なパロディだからである)

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合田道人の紅白歌合戦の真実という本を読んだら、初期の頃の紅白は、観客も制作側も歌手自身も、ものすごく紅組(女)と白組(男)の勝敗にこだわっていて、この勝負に毎回国民が真剣に一喜一憂していた。たまに紅組の応援団に男の歌手が混じっていたりすると「なんで女の応援を男がしているんだ!!」と観客席から本気でブーイングが起こったという。

現在、真剣に紅白どちらが勝ったか気になるとか、どちらかの組を気合を入れて応援している人は少ないだろう。(何かを賭けていたりしない限り)みんな、男女関係なく好きなアーティストの歌やパフォーマンスを楽しんで、勝敗は一種の様式というか、ちょっとした味付けに過ぎないことはみな知っている。

何かに縛られず、自由な魂で音楽の本質を楽しみたいものである。