2008年6月4日

魂の演奏

千明氏と指導に行っているK女ギタマン部の3年生の引退式&発表会があった。
今年の3年生は人数も多く個性的でにぎやかな学年であった。積極的に音楽を楽しもうとする姿勢がよく、自分たちからマンドリンオリジナルをやりたいとも言ってくるし、いまどきの高校生らしくポ○ノグラフィティの曲も演奏する。
高校生が「先生、”ポ○ノ”やりましょうよ!」なんて白昼堂々いうのだから恐ろしい時代である。

それぞれ独奏・アンサンブルなど2年間の成果を披露した後、最後に2.3年生で思い出の「シンフォニア」を演奏。これに強く胸をうたれた。
実はこの曲は今年2月のコンクールで演奏、残念ながら僅差で全国大会への出場を逃したのだが、審査員の中にはダントツ1位をつけてくれる先生もいたほど(当然その逆も)賛否両論の演奏だったのである。

この日の演奏を聴いてあらためて思った。音楽に何を求めるか・・・人によっていろんな価値観があっていい。しかし、われらが教え子たちがこういう演奏をする感性をもってくれたことがうれしく、また誇らしく、やはりこの指導でよかったのだとあらためて確信できる自分がうれしかった。

司馬遼太郎の「世に棲む日々」で死を前にした吉田松陰が弟子と獄中で学問をし「こういった透明な心境でこそ真の学問が出来るのだ」というくだりがあるが、この日の彼女たちも、もうコンクールと関係なく、この仲間・後輩との最後の合奏を無心に惜しみ、楽しんでいるのである。
終わったことだが、こういう演奏をこそ大阪の空に響かせたかった。

それにしても楽器を手にして1~2年の20数人の高校生たちの魂の洪水。
80名近い社会人の猛者を擁しながら、僕は今こんな音をオケからひき出せているだろうか?おもわず考え込んでしまう。

社会人団体の活動は良くも悪くもどうしてもルーチンワークになりがちだ。継続的な音楽活動には、時間をかけて音楽を追求し、奏者や組織も成長し、プログラムにシリーズ性を持たせて音楽のはばを広げていくプラス面がある。
しかし「まあ、次があるさ」という考え方が悪い意味で使われたときマイナス面にもなる。最近、自分も含め団にはそのマイナス面がただよってはいなかったか。

一度きりの時間に全てを賭けて燃焼する高校生の演奏を聞いてそう思うのである。