2007年3月30日

「植木等~男の美学」

植木等がなくなってしまった・・・。
10数年前のバッカスの企画「日本歌謡体系」(なんと言う大げさなネーミングだろう・・・)の第2曲でクレージーキャッツを取り上げた。そのとき、クレイジーのCDを朝から晩まで聞きまくったことが懐かしく思い出される。

うちの父親が良く歌っていたのでなんとなく知っていたが、ちゃんと聞いてみると、底抜けに明るくて気取らないダンディズムがあってファンになってしまった。当時一世を風靡したのもわかる。

たとえば有名なところで「ハイ○れまでよ」の前半の物憂げな部分から素っ頓狂に「てな○といわれて○の気になって・・」と一転するところにドラマがあるし、最後、進退窮まったところでタイトルのキーワードであきらめきったようにシメるところなんて、大げさだが人生の機微を描いているようだ。

吹奏楽ではめったにやられないがクレイジーメドレーがあるようだ。マンドリン界でももぐりじゃない編曲が出てこないだろうか?

うろ覚えだが80年代に、クレイジーのメンバーによる定年会社員たちの悲哀を描いた映画があったと記憶している。ネットで調べたら「会社物語」という映画、たぶんそれだ。

TV放映で見たのだが、ストーリーは、会社に人生を捧げてきた定年ま近のさえない窓際社員(ハナ肇)が、転勤や上司、若手との軋轢などの中で葛藤しながらも、会社生活最後の夜に、やはり定年間際のクレイジーのメンバー扮する昔のJAZZ仲間と夜通しJAZZライブをやるというもの。このライブがかっこいい。ライブが終わった朝、通勤してくる会社員たちの流れと反対に歩き出す植木等の笑顔が悲しくもさわやかだった。

男の美学である。本物のダンディズムである。団塊の世代が定年を迎える今年、ぜひ再上映してほしい。
われわれも30年後、ぜひ定年記念ライブを夜通しやりたい・・・その年に定年の連中で集まってやるのだ。もっともそのころの定年はもしかすると75歳くらいで、徹夜のライブはきついかもしれないが・・・

2007年3月27日

桝川千明リサイタルVOL.3レビュー

以前お知らせした、3/25桝川千明氏マンドリンリサイタルが開催、盛況のうちに終了!
日本屈指の若手実力派ギタリスト・金庸太さんとのデュオは本当に素晴らしかった。今回も一聴衆かつスタッフとして、裏舞台及びリサイタルのレビューをしてみたい。

当日は昼まで大雨であり、石川県に大地震もあったりして、なかなか大変な日であった。朝からホールに入り、金さんもいらして録音をかねて熱のこもったリハーサル。僕の方は主催してくださるIさん、お手伝いのS君、金さんのGF、Mさんとチラシ入れの作業、その後、当日の打ち合わせなど。いつものコンサートよりは余裕があった。

現代ギターさんの取材もあった。そして開場、多くのお客様にご来場いただいた。このすばらしきデュオの演奏、ぜひ楽しんでいただきたい・・・との思いをこめてお客様にご挨拶した。今回も全曲を客席で聞くことはできなかった。しかし、1部は客席で聞けたので、今回ご来場いただけなかった方のためにも1曲1曲についてコメントしてみたい。

スペイン奇想曲
やはりこういう完全に手の内に入ったイタリアオリジナルを冒頭に持ってくるのは正解。マンドリンも金さんのギターも、練りに練られた歌い込みと安定したテクニックで華麗に聞かせてくれる。
ほとんど名人芸。

ルーマニア民俗舞曲
最初の第1曲で鳥肌が立った!この曲、本当にマンドリンに合う。今回一番のダークホースかもしれない。リズムのもたれこみも絶妙。

タンゴの歴史
非常にかっこいい金さんと千明氏のタンゴ・・・今回は全4曲完奏。やはり、第2曲のしみじみとした「間」に泣けそうになる。3曲目も軽快なテンポで余裕を感じる演奏。ピアソラのメロディには、堕落していくようなやるせなく暗い魅力があるが、二人の演奏はこの魔味を十分に感じさせてくれた。いつまでも聴いていたい・・・いいコンサートに必ず感じるあの気分を感じた。

以上、1部は選曲のセンス・演奏ともに、3回目のリサイタルとして集大成にふさわしいものであった。
肝心の2部であるが、舞台転換のため残念ながらここからは舞台裏のモニターでの鑑賞となる。
客席での聞こえ方とはまったく違うのでレビューとはならないが、曲順に以下の通りである。

アステリスク
なんとも不思議で魅力的な響きを持つアステリスク。残響の豊かな白寿では有効な曲だが、モニターではフラジオレットの微妙な響きが伝わってこない・・・しかし、客席で聞けばこの玄妙な世界を十分に味わえたろう。

即興詩
邦人現代ソロマンドリン曲の白眉。恐ろしいほどのパワーとスピードで演奏された。ちょっと押しまくりすぎた感はあった。あまりの音量にスピーカーで増幅させているのでは?との質問があったが、無論生音で次世代機・落合SSがいよいよ鳴り出したのである。凄まじい最後のストロークに、客席からどよめきが・・・

プーナとカルージョ
フーガ第一番
金さんのソロステージ。プナカルはフォルクローレっぽくて一度聞いたら絶対に忘れられない曲。(CD:Varie2収録)即興詩の爆発的な音楽の後にこの柔らかい甘い響きはたまらなく官能的である。
それにしても指が何本あるのかわからない千手観音状態プリングオフの曲。ここだけ異次元の雰囲気、さすがである。

マンドリンとギターのためのソナタ
トリは再びデュオによるステージ。オリジナル曲として圧倒的な内容・規模・難易度をもつ「ソナタ」。はっきり言って奏者を選ぶ曲である。とにかくかっこいい曲だが見ただけで卒倒しそうなものすごい譜面。それをメカニック的にクリアした上で音楽的に表現する域に完全に踏み込んだ演奏であった・・・とはいえ実は最後のほう少し力尽きた感もあったが、最後はいったいどこに隠されていたかと思うような音の洪水でフィニッシュ。客席どよめく。

アンコール・中国の太鼓
前回もクライスラーを取り上げていて、僕は個人的にこの傾向をすごく気に入っているのだが、大曲ソナタの後でちょっと疲れたのかやや空回りの感があった。最高に良いリハテイクを聞いているだけに残念・・・。

2曲目のアンコールは金さん編曲のアリラン。これがまたマンドリンとギターに本当に合う。本日の2頭めのダークホースである。アリランは金さんのソウルミュージックなのであろう。子守唄のような切々とした歌に甘酸っぱい思いがこみ上げてくる。こんな曲を後2.3曲聴きたかった・・・

2部は少し辛口になってしまったが、舞台裏のモニターで聞いたので、もし客席で聞いていれば、もっとふくよかで広がりのあるすばらしい響きだったろう。

ただ個人的には、2部にもう少し柔らかい曲がほしかった。すべて現代曲でまとめるにしても、ちょっと粋でしゃれっ気のある曲が入るとコンサートはもっと素敵な空間になったと思うのだがどうだろう。リサイタルとは別にもっと肩の力を抜いて聞ける小粋なポップスコンサートなど是非聴いてみたい。
とはいえ、ストイックなマンドリン道の求道者としてあえてこのプログラムで挑んだのであればその勇気をたたえたいし、ひとつの道を究めれば、必ず本物を求める多くの人に支持されるだろう。

というわけで多くの人たちのご協力により今回もリサイタルはつつがなく終了した。退館時間が迫り、ご来場いただいたバッカスの皆さんにあまり挨拶できなかったのが心残りであった。

なんといっても惜しみなく練習の時間をたくさん取って、音楽面で導いてくださった金さん、主催のIさん、ご来場いただいた皆さん、本当にありがとうございました!!

2007年3月23日

鈴木静一と大河

必要があってガラシャの総譜を読んでいたのだが、どんどん引き込まれてしまい、
ほとんど泣きそうになった。なんとすごい曲だろう。
ガラシャは明智光秀の娘にして、細川忠興の妻。キリスト教に帰依したのでガラシャ(グレイス)はその洗礼名。関が原の戦いの時、夫の細川忠興が東軍に属した為に、人質にとられることになり西軍に屋敷を囲まれたところ、家臣に胸を刺させ、屋敷を焼いてしまう。
悲劇的なその生涯、祈りつづけるガラシャの姿(ビジュアル的にはやはり長谷川京子
か)や、甲冑・白刃のきらめきの描写。そして燃え尽くす炎。最後のギターのアルペジオ
が花びらが散るみたいで切ない。

「都」でもそうだが、鈴木静一の情景描写のすごさには毎回うならされる。鈴木静一
がもし大河ドラマのテーマを書いていたらどんなに素晴らしかったろう。(ちなみに
今回の千住明の”風林火山”のはかなり良い)今からでも遅くないから既存の曲を使えないものか。すごくいいと思うんだが・・・

さて、企画だが一気呵成に書き上げてしまった!もうノリノリである。今回は後ろに大曲が控えているので珍しく7分くらいなのである。短いのだがその分内容がぎっしり詰まっている。しかも難易度的にはかなり弾き易いもの。とにかく奏者とお客さんがハチャメチャに楽しむためだけの曲である。
「楽・短・易」の三拍子がそろった企画と言うのは久しぶりではないか?まだまだとっておいて合宿でお披露目です。

2007年3月16日

究極のアンサンブルとは・・・

おくればせながら、たはごとがブログになりました。これからは日常のよしなしごとをさらに気軽につづっていくつもりです。

さて、家内とギタリストの金庸太さんとのデュオがすごい。これはたぶん金さんがすごいということだと思うのだが、家内も確実に影響され、金さんの音楽性を吸収している。

なにしろ初めて2人の練習を録ったMDをかけたとき、私は隣の部屋で寝ていたのだが飛び起きてしまった。音は間違いなく千明氏なのに、音楽がぶっ飛んでいる。金さんのギターも超一流。こんな組み合わせは聞いたことがない、と思った。

その後2人のデュオを2回聞いたのだが、いよいよ堂に入り、邑楽文化村で聞いたときは、1000人のホールの最後部座席でも、ある時は耳元に、ある時はブエノスアイレスから立体感のあるタンゴの歴史Ⅱ楽章が聞こえてきた。

それにしても今までにないこの音楽のドライブ感は何であろう・・・うまく説明できないが、千明氏も、そして僕も、「アンサンブル」とは相手と向かい合って、四つにがっしりと取っ組み合って作り上げるものという意識があり過ぎた気がする。だから音楽は合わせることに重点が置かれて手と足が自由にならず、相撲のように組み合ったまま音楽が動かなくなる。

しかし金さんと千明氏とのデュオは取っ組み合うのではなく、同じ方向を見ながら全力疾走している感じだ。両者自由な速さで走っているのだが、ゴールの瞬間は同じである。

2人とも相当のレベルの奏者だからこそできるのであろうが、合奏にも通じることがありそうな気がする。取っ組み合うのはいいのだが、みんなで同じゴールを見ていないと、やがて動きが止まってしまう・・・たとえば今年の展覧会、キエフの大門というゴールまで全員で一人も落伍することなく走れるかどうか・・・途中で取っ組み合いすぎて手前でスタミナ切れをしないようにしたい。

ちなみに2人の最新のリサイタルは・・・http://www16.ocn.ne.jp/~iguchi/

2007年3月13日

名も知らぬ人生の果てに・・・

ふと考えたのだが、いま自分が生きているということは確実に両親という二人の人間の存在があるからなのだが、両親にもそれぞれ両親がありさらにその両親にもそれぞれの両親があったのだけは絶対に間違いない。4代さかのぼれば30人もの人生が自分が生まれるためには必要だった。逆に言うとそれらの人々が生きた証拠がこの自分である。

いまの自分はこれら確実に存在した人々のそれぞれの人生が引き継いできた思いの突端にいるということでちょっと感動する。3代さかのぼれば顔も名も知らぬ人たちだが。
ちょっと罰当たりだがすべての曾祖父母の名前をあなたは言えるだろうか?
由緒ある家ならそういうことはすぐわかるだろうが、少なくとも僕はいま知らない。
確実に存在したのに、ひ孫の代には名前すら忘れられていく人々と人生、思えば悲しいが、庶民の9割9分はそうだろう。

これらのもう一人の自分・わが祖先の人々はどんな人生を送ったのか・・・
ためしに自分の生年から、一般に一世代30年といわれているので30年を引いていく。まず両親だが、型どおり1970から30年引いて1940年生まれ(本当はもう少し速い)さらに祖父母は1910年、曽祖父母は1880年その先は1850年、1820年、1790年・・・もう4代前は江戸時代だ。まあ、年代的に誤差はあるだろうが、この年代を参考に祖先の人生を日本史年表を片手に想像してみる。どれもつらい時代だ・・・確かにいたはずの別の自分たちの人生を思う。

僕は歴史学科出身だし、普段から歴史関係の本を読み漁っている。大河ドラマも好きだ。自分の祖先が名のある人ならどんなにいいかと思うが、残念ながらその見込みはまったくない。

一度両親に先祖は何か真剣に聞いてみたが「越後地方の水呑百姓」または「博労」となんともさえない答えであった。
たぶん間違いなく、昔の日本人の大部分を占めていた貧農で、日本残酷物語(平凡社)そのままの過酷な人生を積み重ねたのであろう。

そういった分身たちの苦闘の歴史を踏み台に自分はいま立っている・・・だから何か明日から変わるわけではないのだが、時々そんなことを考えて少し嬉しくなったり悲しくなったりする。

2007年3月12日

響きを揺らす

演奏会でギターを弾いていると、よく「ノリノリですね」といわれてしまう。確かにノリノリなのであるが、それよりも音源を揺らすことによって響きにうねりと深みを与え、予測不可能な反響の偶然を期待するという深いたくらみの元に楽器を動かしているのである。

体を動かしている演奏は目をつぶっていても動いて聞こえる。どんなに巧みでも、一箇所にとどまっている音楽は面白くない。音響学など知らないから経験則で感じるしかないが、マンドリンやギターは、音の指向性の強い楽器で、仮にこれをまったく動かさずに弾くと表面版の向いている方向にしか音が飛ばず、そこから跳ね返っていく反響音も常に一定のコースを飛び続けることになる。

しかし、たとえば表面版をたった5度うごかすだけで、20メートル離れたホールの後ろの席では数メートルのうねりがあるはず。音の飛ぶ方向が不規則に変わり、反射するものの形や材質によって無限の変化と広がりが生まれる。

演奏中は体を動かして音楽に立体感を与え、なるべくホールのいろいろな方向に音を飛ばして響きを探ってみるべきなのだ。

かつてバッカスでは「スインギン・ザ・マンドリン」で表面版をスイングさせて音楽を躍らせるという試みをした。が、どちらかというとヴィジュアル面での効果ばかり強調されて、本来の意図が果たせなかった部分がある。

僕が合奏中「体を動かして!」と指示するときはヴィジュアル面ではなく、音量記号とか速度記号、表情記号と同等の必然性があると思っていただきたいのである。体を動かさずに演奏するのが普通の、逆に言うと演奏しながら体を動かしづらい楽器であるマンドリンの表現力をすこしでも高めるために・・・